MediumのMediumでMediumの世界

Medium(霊媒) とは霊魂などの実体のない存在との交信や意思疎通ができるとする者(Wikipedia)

私は、主にヨーロッパ方面の犯罪被害者(諜●員)の方のために、ミディアムとして記録を残しています。このブログに、その理由について様々な角度から記載しています。
(※内容から、世界中の親中勢力や民族独立支援諜●員は除くことをお察しください。ごく一部の外国の諜●員の御遺族の方に宛てた内容になっています。彼らへの連絡と拡散を希望します。)

私はミディアムですから、聞き取りをしている相手は当然故人です。故人達(※計画殺人の諜●員被害者)から聞いた情報のみからこのブログを記録しています。(現場や居宅も確認可能です。)
諜●・警察関係者が大多数で、世界中のテ●事件や事故等の現場で何が起きていたのか知ることになりました。
他に、神父やクリスチャンはその何倍もおられ数えきれません。
クリスチャンである私は、ヨーロッパを含む特定地域のために祈り続けていますが、古代のキリスト教の修道者の霊魂も時々現れます。


Who is the liar but he that denieth that Jesus is the Christ? This is the antichrist, even he that denieth the Father and the Son.
1ヨハネ2:22
I pray in the name of our Lord Jesus. Amen.

Do you know?about V(o)ice-to-S(k)ull

UnsplashのMulyadiが撮影した写真




多くの日を経て、エジプトの王は死んだ。イスラエルの人々は、その苦役の務のゆえにうめき、また叫んだが、その苦役のゆえの叫びは神に届いた。
神は彼らのうめきを聞き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめされた。
出エジプト記 2章23-35節










信仰者になる前や、あるいは信仰の途上、あらゆる疑問を信仰に拠り頼み、クリスチャンと


して聖書に道しるべを見出せなければ、途中で脱落していくこともあるでしょう。





「世界中のクリスチャン達の聞いている声が、神ではなく人や人霊である場合はどうするのか?(実際ありそうだ)」
「本当のところ世界を動かしているのは(神という名の)金、権力の諸々だ」
「クリスチャンが言う神の声というあれは、工○機関や外国スパイ活動の一環で危険。その正体は死者や宇宙人や人霊でもあるかも。絶対神とはそれらの総称。」
「信仰とは踏み絵(判断材料)で自分は自分だ」






私はそうでなくても、相当疑い深く、ほとんどのことを信用しません。(未信者以上に疑い


深いです、性格です。)


未信者の時から、考え出すと今でも、おそらく未信者以上の辛辣が脳内で極まります。


いつも「考えすぎ」と言われてきましたので、やるといったらやる事以外、ほとんど考えま


せん。



人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行いの結ぶ実によって報いる。
エレミヤ 17章9-10節









そういう人間が信仰を持つとなると、一人反キリスト対決でもしているかのようになっていくのかもしれません。(ところが、アンチの世界とはどこも同じで箸にも棒にも掛からないようなものです。)
反キリストは、実際にヨーロッパの歴史上に現れると言いますから、神は私のような人をそれに備えさせているのかしれないと、有る時考えるようになりました。(※反社会勢力対決の方ではありません。)
私の信仰は、90%疑いから始まっていますが(能天気ではない限りそれはそうでしょうと考えます)、「イエスキリストを告白する世界的に高偏差値の霊」によほど助けられてきているくらいです。(生きている人間の方がひどいでしょう。)


また、誰かから「自分にも信仰がある」と言われても、そのことと私とは関係のない(私はあなたでありません)ところに私はいるように(子供の頃から)感じます。
聖句に「祈りは隠れたところで」とありますが、誰かと相談しながら、一緒にお手て繋いで難関大を受験する人はいないのと同じです。



あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
マタイ 6章6節







真剣な時は、大抵の人は誰でも一人になります。
東大理科Ⅲ類を、自分の代わりに受験してくれる人はいません。できる人がいるなら、その人は自分の名で出願します。
同じように、命の復活について教えたのは、人類史上イエスキリストただ一人です。
他にもできた人がいたなら争いにもなったでしょうが、争えるなどいう話しでもありませんでした。
(生前があるというのなら)不信者の死者は死後に、復活できないために地団駄踏んでいます。被造物である人間にはどうすることもできないことなのです。



狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。
マタイ福 7章13節









キリスト教では、洗礼を受けまた信仰告白を行った個人に救いがありますが、そのことが大前提であるのは、イエスキリストがその道を切り開いたただ一人の人だからです。



イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
ヨハネ14章6節






狭い門(東大理科Ⅲ類)から、自分が入りたいからと言って、必ずしも入れるものではありません。
努力し続けるのは天才の業ですが、信仰だって同じでしょう。
そこで、いつかどこかで「責任放棄を」「さぼれ」と囁き続ける’悪魔の主義’とやらにより、洗礼を受けず信仰告白もしない自分の代わりに、何故か生贄を探さばければならない、という知的に疑わしい、旧約時代の言行へ舞い戻ります。


狭い門(東大理科Ⅲ類)へ自分が入れるかどうかは、社会が醸成されているかいないかの問題ではなく、不正も不可能な自分だけの問題です。
誰も、そんな悩み相談に乗れません。
どんな「責任を放棄」「責任の所在の転嫁」「不正入学」を行えたとしても、入学後には、誤魔化しのきかない人たちが待っている、嘘ではどうにもならない世界です。
それでは、他人の思考を盗聴するという不法行為が当たり前であることが、世間の明るみに出て来た現代において、「死後、四日を経た死人」を死から蘇らせ、癒しを望む病人を全て癒す難関に挑むという、クリスチャンの信仰は簡単なのでしょうか。
狭い門に入る入るとは誰にでも言えますが、信仰を持ったクリスチャンになればそれができるとも限りません。




イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
マタイ福 22章37節




狭い門(東大理科Ⅲ類)へ自分が入れるかどうかを考える人に、この聖句が簡単に映り得るとは私には思えません。
(神学は世界の一流大学で学べます。)










「賜物の奪い合い」!?が昔からあったそうですが、現代では思考の盗聴(※不法行為)という、多くの自○者も出している社会問題として認識されています。
また、霊界においては形を変え、「憑依現象」と言われたりします。
冒頭に示した、「クリスチャンが言う神の声というあれは、工○機関や外国スパイ活動の一環で危険。その正体は死者や宇宙人や人霊でもあるかも。絶対神とはそれらの総称。」のように、自分が信じていたというその神の声が、神の声ではなかったらどうするのでしょう?
信仰者として何をどこまで考えるかは、人それぞれかもしれませんが、戦争が噂ではなくなった現代社会においては、その責務も問われています。



「見よ、わたしは命じて、人がふるいで物をふるうように、わたしはイスラエルの家を万国民のうちでふるう。ひと粒も地に落ちることはない。
わが民の罪びと、すなわち『災はわれわれに近づかない、われわれに臨まない』と言う者どもはみな、つるぎで殺される。
その日には、わたしはダビデの倒れた幕屋を興し、その破損を繕い、そのくずれた所を興し、これを昔の時のように建てる。
これは彼らがエドムの残った者、およびわが名をもって呼ばれるすべての国民を所有するためである」とこの事をなされる主は言われる。
アモス 9章9-12節









彼ら(打ち叩き合う死者、悪魔)にとっては、生者の世界は”意味がない”ので、犯罪や暴力や破壊活動を行います。
現実世界にもそのような人は居ますが、生きている間にそうであれば、死後にもそのままなのです。


ですが、「魂は永遠で不滅だから」人を殺しても殺されても裁判沙汰にする意味はない、この世の方が一時的な夢みたいなものなのだと(※自分は親中である親中であると、死後にも主張の故人から聞き取り済み)、死後に地獄行きの最中にも好き勝手しているあちらの世界の霊魂の実態を、知る私からすると、「裁きに備える必要も考えなくてよい、不法行為に胡坐をかいている世代」というに腰かけてきた、現実世界の人々との共通点として、それ(彼ら(打ち叩き合う死者、悪魔)には、生者の世界は”意味がない”。「魂は永遠で不滅だから」人を殺しても殺されても裁判沙汰にする意味はない。)が浮かび上がってきます。
そして、ある日突然、魂に死が訪れあちらの世界から消え去ります。(確認済み。)





↓こちらは聖句中の「幻」。
『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。
また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。
主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう』。
使徒行伝 2章 17-21節





千年王国に終わりが来ることも認めたくなければ、途端に輪廻転生説が始動しだし、「成仏した」のだと、話がすり替わっていきます。
宗教のことは詳しくないので、「自分にとって良い事だけ信じる」という人も、世の中には多く存在している通りです。


中でも、論理思考ができなければ、信仰においてもあれこれ定まらず、それならば唯一の救いを説くキリスト教とは無関係ということであり、つまるところバビロンの大淫婦(宗教的姦淫)にあたることになりますが、「いいやそうではなく自分は’残りの者’なのだ」とすり替えていくのも、ありがちな話しではあります。
自分は、キリスト教の聖書の中に登場する人物「○○のようになる」「●●という役目の者になる」等々の、一種の偶像崇拝を始めながら、イエスキリストへの信仰だけは絶対に口にせず認めないという人は、教会にさえ(当然)存在しています。(どこにでも、どんな人でも存在しています。)



↓こちらは残りの「物」。
そして祭司は手のひらになお残っている油を、清められる者の頭につけ、主の前で、その人のためにあがないをしなければならない。
レビ 14章18節







悪魔は手練手管の大嘘つきです。(※何十年と確認済み。)
魂は永遠だと、誰かに嘘をつき誰かを騙せれば、多くの人がそう思うことで「魂は永遠になる」のだと「信じ」る人もいます。
それならば、信じること=非論理的な、ということになりはしないでしょうか。
そのように、信仰が盲目であるというのは、いつも90%疑い続けているのが習い性の私には、考えられないことです。
自分では考えないということですから、自分の判断や思考の基準は、常に自分の外側の世界にあり、自分以外の誰かだと言っているのと同じです。


クリスチャンである自分が存在するのは、一方ではイエスキリストのせいだイエスキリストが悪い、それだってクリスチャンの内だ、そんな完全ではない弱い自分をイエスキリストが負ってくださる、という二枚舌も悪魔主義界隈で有名ですが...
神の御前という現実を無視する悪魔が、天国ではなく、色々な「お花」畑に住んでいるのを、私達はよく知っています。



「もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」
マタイ 5章13節









神の前に認証や資格を得る(神職)と言うからには、その責任を放棄することはできず、違法行為や不法であれば、法的裁きが待っています。
一般信徒が信仰を持つその責任も、同じように重いもののはずです。






それと同様に、執事も謹厳であって、二枚舌を使わず、大酒を飲まず、利をむさぼらず、きよい良心をもって、信仰の奥義を保っていなければならない。
テモテ一 3章8-9節





(2022.12.5 追記修正済)